satomingoの記録

アズワン留学中(2017/8/1~)サイエンズアカデミー(2018/4~2019/2)その後の生活の振り返り用。 diaryとして整理のために。 いつでもスタートライン。

2/25 振り返り

卒業論文を書くにあたって、今まで19ヶ月の振り返り。
書く、発表するという事よりもこっちが大事かな?
金曜までは今までのブログや日記を読み返したり、入学希望時のレポートを読み返したりしていた。
そこで何か違うぞ?という感覚になった。
過去にこういう事があった、とか振り返って見るのは“過去の自分が書いたもの”
今の時点である記憶がどうなっているか?
そっちの方がリアルというか近いというのか…

内観では過去の資料とかは一切使わない。
あの時どうだったのか?を今の記憶から探っていく。
こうやって見えてくるものがある。
過去のブログとかでそうだったと位置付けるのもどこか違うような。

ブログとかで振り返るのは出来事の助けくらいかな。
自分の中にある“願い”みたいなものは今も昔もそう変わっていない事には気付けたりした。
あの時の自分はどうだったか?の視点で散歩したりすると色々と出て来たりして面白い。というのを昨日実感した。

提出は今日の夜までとなり、明日の夜には発表会が予定されているけれど、
さて、どうなるかな?もっと振り返りたい気持ちが出て来ている。
コースでもよく思っていたけど、いかに振り返れるか?
ここかなー。気付いたら書き留めておきたくなるから、振り返っては書きの繰り返しをやってみたい感じ。今日はそんな1日にしてみたいな。って。

坂井さんから発表会を設けると聞いて
途端にやる気がなくなる自分。
やらなきゃなのかなー。やってもやらなくてもいいから、やらなくていい自分を作っておこうとする自分がいた。逃げ道というか保険というのか。
発表の前に坂井さんと少し話したら、今ある分を出そうという気持ちになった。
今より悪くなることはいだろう。というのが出て来た。
自分にとっても聞いてくれる人にとっても。
どういうことが自分の中で起きたのかな?
守る感じは出てこなくて、やってみようとなった。
そうしたらもっと振り返りたくなった。

自分の年表を送った。
よっしーとは書き方も書く内容も全然違う。
同じように坂井さんから話を聞いていたけれど、こうも違うんだなって面白くなった。
認識から現れてくるものがこんなにも違うというのは、二人で発表っていうのは面白いかもって。
アカデミックに論文を書きたいよっしーと。
次に繋がる人にハードルを低くしちゃうぞって思ってるわたし。

人それぞれでっていう面白さと世界の広さ、奥深さを垣間見ているような感じだ。
「こういう風に書く」というのに沿ってやるよりも、一人ひとり違う方が豊かで多彩かもしれない。

(というか違うのが常というか)
論文とはこういうものだっていう自分の考えから書くときつくなるかな。
もっとお気楽に。書きたいように。流れるように綴るのが自分には合っていそう。

2/20 話し合いという前提

昨日はよっしーが休みでチェリッシュ終わったら一緒に過ごせると思っていた。
そういう時間は今の自分たちの中で定例にしたいとよっしーも思ってる。
それをよっしーは夜ご飯食べてからの一時間くらいとしているようで、暫くそんな風にやっていたが、わたしはどこか気に入らない感じがあった。

本当の自分はその時間は入れる時にお風呂に入って置きたいというのがあった。
けれどよっしーにはそれしか無理だから、よっしーが眠るまでの時間の話し合いという風になっていた。
よっしーと話た後になると、お風呂は22時過ぎたりになったりもあって。
最近はお風呂に入る人たちが増えていて、入りたい時にいつでも入れるわけじゃない。
そして身体をなるべく温めたくて、出来ることなら眠る前と思っている。
水・木とサロン、研究会があって夕方入るようにしているけれど。
遅くなりすぎると次の日辛いから。
お風呂に入らなければならないとまではなっていないけど、話し合いを削ってもここは優先したい自分かもしれない。
でもお風呂は無ければならないと思っているかも。

ご飯の後にお風呂に入ってそれから落ち着いて話せるのならそれは一番いいんだけど、

よっしーは体質上早く眠りたい人。
それをすると話せる時間はガクンと減る。


そうして、今日はよっしーは午後のサロン、2時間空けてわたしは夜のサロン。
だからわたしはよっしーのサロンの時間まで“話したい”というのがあった。
話さなくてもいいや〜ってなっていない。昨日も話せなかったしって。
昨日は結局一言も会話を交わさなかった(joyで顔を合わせただけだった)
今日の午後話したい、とメッセージで伝えた。よっしーからは
スペシャル弁当の仕込みを午後やりたいから遅くなる、夜ごはん食べた後のサロンの時間まで話せたらと思ってる」とのことだった。
わたしはサロンの時間をチラチラ気にしながら話すのが集中出来なくて好きじゃなかった。でもその時間しかないからとかその時間なら出来るから貴重だ、という理由で今ままでそうしてきたかもしれない。
話せるのなら話したいという感じだっただろうか。
本当のわたしはその時どうしたかったのだろうか?
その時々で違うはず。今はどうしたいの?

昨日からよっしーに従ってるというか、よっしーのこうしたいという意見に沿ってやってる感じが嫌になって反抗心が出てきている。
だからもう昨日も今日もナシでいいや、話したい事あったけど事柄はメッセージで伝える。心に起きた変動は別に聴いてもらわなくても胸の内に秘めておこうとなった。

そういうよっしーのメッセージを見たとき少し心が重くなる自分がいる。
それまで穏やかに掃除したり洗い物してたりしたけど、そういう気が無くなる。
今日は夜ご飯よっしーの分も作って一緒に食べよう〜♪と思っていたけれど、
その気も失せてくる。
何だろうね、これ。
自分知るチャンスだと思った。

毎日、話し合いが出来ることが当たり前となっている自分が居る気がする。
ふたりの意思を聞いてそうなっているからみたいなのが前提となっている。
先の事が決まっているみたいにもなっている。
明日は夜、研究会。午後はチェリッシュになるかもとか。

よっしーと話せるという前提。
それは前にはなかったもの。

本当はどうしたいの?

話し合うことで何がしたいの?
今日の午後にしなければならないの?

2/19 なぜここに居るのか?

昨日から8泊9日の予定で韓国から3人がアズワンハウスに来た。
夕食を共にし、その後軽めの交流会。
自己紹介とお互いになぜここへ来たのか?
という問いを出し合った。その質問を受けた時、そんなに深く話すつもりはなかった。
何人かのを聞いているうち、そしてジエゴのを聞いた時に彼らに何かの参考になればという想いが出てきた。

来た時を思い出して「何故来たのか?」というのを言うというのを今までしてきたように思う。けれど、それは今とは少し違ってくるように思った。
これは人生のコースの影響か?

だからわたしは「わたしは何故、今ここに居るのか?」というのに置き換えて話始めた。

ずっと心に穴が空いたような、何をやっても、旅行へ行っても、欲しい物を手に入れても満たされないような自分がいるような感じだった。
結婚してもそう。好きな猫を飼っても。
そして仲良くなった、心が通じたな〜と思った人たちとは対立したり、受け容れあえなかったりして…

という自分がジミーハウスで少し暮らすことになった時に、どんな自分も受け容れられた体験。そして心を聴いてもらえたような満たされるようなことを味わった。
これがわたしが満たされたかったところかも。と、その時思った。
それから月日は経ち。よっしーと暮らすようになった。
満たされるところもたくさんある中で、それでも喧嘩が絶えなくて、どんどん自分をせめるわたしが居た。
仲良く穏やかに一緒に居たいってお互いに思ってるのに不思議だった。
よっしーともそうなりたかったし、どこで誰と居てもそんな満たされる自分で居たいというのが、わたしがここに居る理由かもしれない。
そして人がその人らしく生きられる毎日。もちろん自分も。
そんな日常生活になることがわたしの今思う願いかな。

2/18 アカデミー卒業に向けて

アカデミー生活を2月末で終わる予定である。

後9日間。
8月の中旬に妊娠していることがわかり、
そこからお母さんになるためのアカデミー生活を送っていた。
最大で臨月に入る前の2月までだろうといところで区切りをそこにしてやってきた。
そこからは手書きの日記で体調の事や思ってる事を書きたい時の書ける時に綴ってきた。誰にも見せる事なく。


昨日、オフィスの坂井さんとのプチミで卒論についての話(プチミ)があった。
わたしはよっしーから1週間弱前に少し聞いていた。
アカデミー生活を振り返って何か形にしておきたいとは思ってはいたけれど、よっしーとの間柄についての変化についてのレポートくらいにしようかな〜程度に聞く前は思っていた。
卒業論文」と最初に聞いた時には、そんなのわたしには書けないよ〜だった。
論文って何をどう書いていいかわからない。
やらなくてもいいという状態だったので坂井さんの話も素直に聞けた感じがあるかな?

論文という言葉が的当かはまた検討するとも言っていた。
どういう形で書こうか?という話を昨日はよっしーと坂井さんとで行った。

 

土曜日までの人生のコースで思っていたことだけれど、「レポートを書く」というまでの振り返りや「自分で表してみる」というのがアカデミーの生活に置いてやって置いたらよかったなと思った。
知るためのコースでは毎日レポートを書く。
やってもやらなくても良いベースでこれをやると何を書いてもいいという状態に自分がなる。

プチミが終わる頃に思ったが、論文を書こうとしてみるの面白そうだなって。
以前はアカデミー3ヶ月毎のレポートに対してやる前提で取り組もうとしていた。

何をどう書いていいかわからないので漠然と振り返ったことをツラツラ書き続けるだけだったりして、途中で投げ出したくなってやらなかったりもした。
レポートとはどういうものか・・・根津のレポートを読んでこう書かなきゃみたいに受け取って、こんなの書けないと。
自分の中のイメージでそれをやらなければならないと思っていた。

帰ってきて、まずは今までの1年5ヶ月(19ヶ月)のコース参加を年表のように一覧にする作業をした。これが中々面白かった。
19ヶ月、19回コースに参加していた。

後は概要・職場研修・学びの機会・暮らし・その他・ミーティングについて
自分の変化やそれを通して学んだ事などを書けたらかな?とか。
テーマを絞って内観してみると振り返りやすいかもと思った。
サイエンズメソッド・自身の変化。

わたしは「人に対しての自分」という視点にしてみようかな?と出てきた。
そういえばこれは前回の内観で最後にやったテーマだったな。
ふと、ここにきた時の動機も思い出された。
それに対してはどうだっただろうか?

そういえばコースでは毎日夜の宿題テーマがある。
書くのはなんでもいいんだけど、1日を振り返って思う事・宿題テーマについて…
どこに自分が視点を置くか定まっていないところで闇雲に書くというのがダラダラとする要因かもしれないし、振り返りきれない。


自分の中の研究テーマがあったらそれについて書けそう。
このブログを開設して、毎日じゃないにしろ書いていたことで
振り返る手伝いになりそうでやっててよかったと思った。
ただ、アカデミーになってあまり書かなくなっていた。
2人部屋になったり、1人の時間が取れず
そういう周りの状況に左右されていた時期とも言える。
2017年4月〜8月の期間はそうだったかな。
結構荒れていたし。


どういう形にしろ、自分自身の中身を振り返って形にしてみるというのはこれからもやっていきたいと思っている。

 

本来のお母さん

アカデミー生活も残り二ヶ月となった。
どこを重点に生活して行こうかというのはしばらく前からの課題だった。
この12月まで1ヶ月間くらいは具体的にどのあたりを見て行ったらいいのか、、、
不明確だった。
よっしーと話し合いができるようになりたいとは思っていたが、そこからコースへ行きたいとかなっていた。
自分自身としてどう成長したいのか。

内観から帰ってきてからもモヤモヤしたような感じだった。
まずは最少単位の家族からひとつを実現したいと思いつつ。
そこかなというのは何か今ひとつパッとしなかった。
ミエさんに少しボヤいたあたりで、閃いた感じがあった。

「お母さんになるための準備」

どこまでいけるか、近づけるかは不明だけれど
本来のお母さんに近づきたいと思っている。
”良くも悪くも子は親見て育つ”

穏やかな母でありたいとは思うものの、その具体的な像はまだまだ知らない。
子どもの成長とはどういうことだろうか?

本来の子どもの姿
本来の母親像

自分の目指す母親像


このあたりを明確にしていくことが今のわたしの重点を置きたいところかな。


8/1 ゼミ、サロンを通して思うこと

その目的は?わたしはゼミ・サロンをどのように捉えているのだろう?
4月から始まったゼミについては「人知革命」の本を輪読している。
それで感じることは日常を本のテーマに沿ってどうだろうか?と探っている時間、自分の状態について知る時間のように思えた。
日常の中の「自分を知る」ための時間とでも言えようか。
 
わたしは自分の状態について開けっぴろげに言い過ぎだろうか?と白紙に成る前に思っていた。出しすぎたかなーとか。諦めたくなっているとかも最後の辺りで言っていた。
 
今回ゼミ・サロンについて自分がどうか?と思う辺りで、それ以前にコースやアカデミーという生活についてもどうなのか?と考えたかった。
そんな時間をじっくりと取りたいと思っていたとろころで、先週7/26の夜にグムちゃん、よっしー以外の8人に自分の状態について聴いてもらうことができた。そんな中で明らかになったことは、自分はよっしーと暮らしたいということよりもその前に「家族のような関係」を求めていることに気づいた。
それをずっと追い求めているようにおもう。崩れない、遠慮のない、何を言ってもやっても大丈夫、帰ってこられる場所。そんな場所を創りたくてアカデミーをやっているんだなと思った。その後によっしーとの暮らしもあるかもしれない。でもよっしーと暮らしたいという中身も「家族」になりたかったんだと思う。そして何か特別なことでなくただただ、普通に穏やかに暮らしたかっただけだった。何かを得ようと必死になるとか、がむしゃらに頑張るとかそういうことじゃなくて、人と人との触れ合いの中で、人や動植物に囲まれながら…それぞれがまず自分を大切に、人や物をも自然に慈しめるような…そんな暮らしを望んでいる感じがする。
 
また出発点に居るのか!?とそんな考えがちょこちょこ顔を出す。
たしか去年の12月に初めて人生のコースを受けた後によっしーに合わせようとした自分に気づいて、自分としてやっていきたい気持ちがあるとお正月に聴いてもらった覚えがある。
まだそこにいるのかとも言えるけれど、その時と違うところは、今はよっしーが居たとしてもそれ以前にアカデミー生と本当の家族になるという経験をしたいと思っている。それが自分のアカデミーでの目指すところな気がする。
いつでも此処に帰ってこられるような状態になりたい。この後にどこかでやるのが本番ではなく、此処が本番であり実験場なのだというのが実感を伴った感じがする。
 
最近では「気持ちのやりとり」ここに自分の焦点が当たっている感じがある。本心で生きている人に、人は心に響くものがある気がする。まずは自分が本心で生きられる人になること。
そんな道筋が少しずつ実感を伴い見えて来た感じがする。
わたしは頭での理解だけでは乏しい感じがする。実感を伴って初めて自分の意思から動く主体的な状態となる自分に出会っている。

 

7/29 アカデミーで目指すもの

彷徨っていた。此処を出たら、アカデミーを辞めたら、よっしーと暮らせるし自由で快適な暮らしとなれる気がしていた。それをよっしーはついてこないとして、どうにか振り向いてもらおうとそんなことを四苦八苦していた感じだったろうか。よっしーと暮らせることで何をしたいのか。よっしーと本当の家族になりたいと思っていた。そこからよっしーはひとつ置いて、アカデミー生と決して崩れない、いつでも相談できて、繋がっている家族になりたいというのをまず今の自分は取り組みたいというところに思いが至った。

 
よっしーの描くアカデミーと、よっしーのやりたいことが自分と遠いとずっと感じていた。わたしはここでこれを学びたい!という強い欲求がない。
ずっと自分の中で一貫して思っていることは揺るがない家族を作りたいということだ。それは小学生くらいから思っているかもしれない。自分が自分で居られる。そんな場所や人を求めているんだと思う。いつでも帰られる場所がある人がずっと羨ましかった。安心した場所、空間、人…遠慮なく何でも言えてくつろげて、そんなHomeが欲しくてわたしはここにいるんだと思う。
アメリカ高校生たちに触れて、感じた事。彼らには男女の境がなかった。それが本当に羨ましかった。
アカデミー中にやりたいことは、人と人の日常の会話の中で気持ちのやりとりが自然と出来ること。それが話し合いだと思う。ミーティングの場は日常の中でそう出来るようになるための機会であろう。
それを前回の研究会で感じた。ミーティングや研究会、コースから暮らしへの移行がどうなっていくのか。
 
やることの前に気持ちがある。帰りたいという事柄でなく、その前の思いから伝えようとする。相手がどうしたらはやく溶け合えるかとかは自分自身にかかっている感じがする。相手の気持ちを聴く前に今の自分はどう感じているのか、その辺りがkeyとなるような感じがしている。
相手の気持ちがどうかを聞こうとする前にまずは自分がどうなのかという点が結構抜け落ちてるなとアメリカ高校生STを通して感じた。