satomingoの記録

アズワン留学中(2017/8/1~)サイエンズアカデミー(2018/4~2019/2)その後の生活の振り返り用。 diaryとして整理のために。 いつでもスタートライン。

7/26 今日やってみて

昨日の夜は寝不足だった。夜中の雨でも起きた。
眠い中弁当屋に行く。行って早々、調理の臭いからか気持ち悪くなる。
限界までがんばった。弁当のクオリティは寧ろどうでもよくなっていて、とりあえず中身があって蓋がしまって、見た目がそこそこならおkとなっていた。終わらせることが目的となっていた。これをクリアすればいいんでしょといった具合だ。
8時20分〜50分くらいまで事務室で休憩してみたが体調よくならず…
レディースの蓋閉めから再びやったが限界だった。途中でみゆきさんが変わってくれて「みんなごめんね」といって盛りつけ室を去ったわたし。
後ろめたさが残ったかな…今日弁当屋に居たメンバーと顔を会わせるのが気まずい感じがした。
 
昨日はよっしーと午後にカフェ、夜にとりすけに行った。
カフェでの話しで、自分が今どういう状態でアカデミーでの生活を考えてるか出した感じがあった。
わたしはどう感じているのか。ゼミとサロンに行かなかったのは人の影響も大きいなと感じる。杉江さんのゼミとサロンに参加したいというのはあまり出てこない感じがあった。これが小野さんだとしたらわたしは参加したいと出てくるのかもしれない。この点は自分にとって大きい感じがある。
あと、よっしーがセミナーの研究会に誘われたけど二つ返事しなかったと聞いた。一つずつを消化したいというような表現をしていてが、わたしも同じように考えていた。
木曜のアカデミー研究会から暮らし→ミーティングという流れを2nd qtrでは取り組みたい感じがあった。研究会の時間の準備に時間を使う方がしたい感じもある気がする。予習・復習といった具合だろうか。

7/14 人は話し合うことでも満たし合い

何故やることの話し合いをするのかな?順番が逆のように思えるな。人がどういう風に動くのか?何かを受けて心に響き気持ちが動く、それによって「こうしたいな、あぁしたいな」と自ら動こうとするのが自然じゃないかな?やることがまずあってそれの話しをするのはつまらなく感じたり、やる事がやってきた感じになって、味気ないな。
突然やりたいことが降ってくるわけじゃないよな。何かがあってやりたいという気持ちになるまでの経緯がある。
アメリカ高校生の受け入れで「これを私にやって欲しい」と聞いたとき。“やる事”として聞いてる自分がいた。“やること”と受け取ったときそれをやるにはどうしたらいいかな?わたしじゃなくてあの人がいいかな?とかすぐにやる事の方に関心がいった。
それを“やること”と受け取るのか、なぜそれをやって欲しいと思ったのか?その元やその人の気持ちや心に関心が向いていったら、自分が思ったやることと随分中身が違った。それをやって欲しかったわけではなく、こういう場を創って欲しい、その場を生かしたくて創っていくのを一緒に考えてやりたかったと聞いてグッと気持ちが動く自分がいた。
まだ起きてない事だけれど、この話し合いがあってわたしは満たされた気持ちになった。
やることはやっていないけれど、満たされるって面白いな。やる事の話し合いはむしろ要らないかもしれないね。

7/6 2ndクォーター始まる。

7月に入り、次の3ヶ月がスタートした。
成長していないように感じた1stクォーター。
アズワンハウスでの暮らしは自分の中に”あるもの”が思いっきり顔を出す生活だった。留学時代とは大きく変わった。アカデミー号が高速船に思え、その速さに自分は付いてけないと感じる。酔いそう、というか酔っているかもしれない。外からの人を受け入れることも度々ある。ハウスでの自分がどうなっているのか、職場での自分がどうなのか、ゼミ、研究会、各種のミーティング、コース、観察プログラム。その一つひとつをゆっくりじっくり見ていったり、消化する時間を過ごしたいと思った矢先に外からの人を受け入れたり、話しをしたりすることがある。ちょっとそういうものに振り回されている状態であるなと感じている。

そこで自分は成長してないと感じるところや、他の人が引っ掛からないところでいつも自分ばかりがつまづいているようにおもう。ゼミでやってきた内容。この現状の人間の状態をまさに自分がいくつも身につけている状態でそれが本来でないと見えて来て、でも真の姿が描けない自分がいる。やらせたり、やめさせたりのない間柄は自分自身も周囲の人もとても快適に暮らせるだろうとは思うけど、リアルにその状態が描けない感じがある。それは今の自分のやらせないと落ち着かない、不安な状態が邪魔しているなとは思うが…。自分には真の人間の姿からはほど遠い気がして、わたしにはもう無理でないかと諦めかけている感じがある。

この辺りは”自分”と”人”という区別がハッキリとある辺りで引っ掛かる感じがしている。コースへ行っている間に男女のシャワー室のひとつが入れ替わった事で強く反応したた自分がいた。それはよっしーとの事で起こった反応より強いものだった。シャワー室の事からアズワンハウスの掃除、物の配置や置き場について考えが巡り2日間ほぼ眠れなかった。昨日の夕方までは全然落ち着いてない状態。
イライラしながら食器棚の中の整理をしたりしていた。わたしがそういう状態だと人々が去って行くように感じて、自分が居ないことがみんなの幸せにつながるというのと結びつけて行く。自分でもそういう状態で居たいわけではなかったが、自分を安心させることで必死だった。そういうのにもまた反応して、なにか破壊したくてたまらなかった。食器をコンクリートに打ち付けてスッキリしたかった。そんな感情が出て来た。


もうここでやるのは自分には無理ではないかと思う一方で、ここが人間関係の問題を根本的に取り組んでいる唯一のところ(自分が知る中で)と思っていて、ここでダメならもうどこへも行けないような感じもしている。あとは生きることをやめるしかない。そういうのもちらちら顔を出した。そんな狭間にいる今。面白いと感じることもある。

昨日の夕方は自分の今の状態を出す事が出来た。聴いてくれる人たちが居てくれた。

「落ち着いた?」と聞かれて「全然」というところから、こんな自分でもいいんだなと思える状態にまでなった。そのまま出せる安心がある。話すと自分が居る事でみんなが不幸にはつながらない感じもある。ヨノのレポートを読んで思ったが、話しをしている時の自分も自分と相手が別々というのを強固に持っている感じがある。

自分の事を話している、そういう感覚がある。この中身はどうなっているだろうか。

素直になんでも出せる一方で真の人間から離れた無理な物をたくさん身につけている自分、そんな身につけている自分が悪いんだと責める気持ちが湧いてくる。
これから離れない限りは阻害しているものは消えていかないだろうと思う。

ちょっと色々な事が起きている感じがして、ひとつひとつどうなっているのか見て行きたい。お弁当屋さんに無理して行っている自分。(だがこの二日間はスタートの時間より遅く到着していた)他の人の分まで稼がなければと辛くても頑張っている。今日はオフィスと1stステージのミーティングに参加せず夜ご飯を仕込んでいた。

1stクォーターではよっしーとの間に色々反応する自分がいた。この前の見るためのコースで大元によっしーに対する自分自身の見方(捉え方)がどうなっているか知る事が重要かなと感じそこをじっくり見てみたいと思った。

 

今は他の人を受け入れられる状態でないと思うが、19日からは一週間弱、アメリカの高校生たち12名をアズワンハウス、アカデミーで受け入れるらしいと聞いてその辺りもとても気がかりだったりする今。わたしはどこにいけば安心するのだろうか。

もう楽になりたい。。。

不愉快な心模様。

よっしーとの間に起こる自分の不快な感情。
浜松から帰って来てからこれに翻弄されている。
よっしーがスタディーツアー、(職場がビジターズステーション)に関わりだしてからわたしの中でハッキリと起こるようになった。
どういうことが自分の中で起きているのだろうか?

・よっしーとわたしの時間が取られてしまう感覚がある

・夕ご飯を一緒に食べても食べなくてもよい状態ではない

(一緒に食べることになっている)

・2人で過ごそうとしていた時間に急に来訪者を受け入れることになり、一緒の時間がなくなる
・よっしーが居ないときは良いけれど、ハウスに居てでも一緒に過ごす事が出来ないのを認められない(よっしーの自由意志を認められない)

5/28 プチミ後

昨日のプチミで気づいたこと。
コースでよっしーが居ない中、とても自由に動いている自分がいた。
ガイアエディケーションのなつみちゃん、ジエゴのお母さんセシリア…今自分がここに居る目的、アカデミーが終わった後にどのようにするつもりか、今描いていることを2人別々に問われた。その中で自分自身に対して問いが生まれ、考えたら重い巡り路頭に迷っていた。

わたしは”よっしーの彼女”という看板を自身で背負ってここでやってきていたように思う。目標はよっしーと暮らしを共に出来るような自分になること。事柄的にはよっしーと一緒に暮らすということ。そこを真剣に目指していた。そうなるか分からないけれど、それがないとなったら自分はここに居る意味がないと出て来ていた。
それと最近、自分の意思や気持ちより”やることになった”ような事柄に対して、外からやってきているように感じて違和感がでたりしていた。それがやらなきゃになったりしすると途端にやりたくなくなる自分がいる。

コースへ行っている時と、日常が違うと意識して一ヶ月くらいかな。それが何なのかずっとよく分からなかったんだけれど、昨日はよっしーがコースで居なかったのが、すごく自分から自由に動けているように感じがしてとても楽だった。コースの時もよっしーはいない。よっしーが居るからとかではなくて、これはよっしーに対して自分が彼女だという接し方をしているのと、みんな里美とよっしーはセットみたいに見ていると勝手に思っていた。それが全て自分がそう見ているだけだった。
この辺りから”違い”が明確になった気がした。最近では一人ひとりでやっている他のアカデミー生を羨ましく思っていた時もあった。そうやってわたしにはよっしーが居るから此処では出さないようにしようと気持ちにフタをしたりしていた。

本当はどうしたかったか?と今どうしたいか?自分自身としてどうだろうか?
一人の自分として何に向かって、何を目的としているのだろうか。
今、自分は何をしているのだろうか?

5/22 夢の出来事

今朝の夢     

 

山合いの家に暮らしていた
スーパーまで車でないと夜は真っ暗な道となる
夕方くらいにスーパーにいた
 
よっしーが赤ちゃんを前抱っこしていて買い物をしようとしていた。照子さんが横にいた。赤ちゃんは7カ月。わたしの子どものようだ。赤ちゃんにわたしはどうやら関わらせてもらっていなかったらしい。入り口で抱っこをしているよっしーを見てわたしは『わたしの子どもだよ。関わらせてくれてもいいじゃん!』と哀しそうに叫んでいた。その後一人でスーパーをウロウロしていた。
そうして辺りが暗くなってきたところでよっしーを目にして、「まだいる」と思ったのか、探し始める自分が居た。いつの間にやら『よっしー、よっしー、よっしー』と大声で探す自分。周りの人御構いなしにだ。
併設されているゲームソフト屋さんでは「よっしーだって」とマリオのゲームをてにした子が馬鹿にしているように見えた。
そのゲーム屋を出たら、照子さんが子どもカカートを整理していた。あまり使わないものを奥に、よく使うのを前にしていたようだ。声を掛けたけど、無視された。すごく怖い顔をしていた。こんな照子さん見るの初めてだなと思うのと、自分がこんな不安定な状態だから無視されたと思っている自分が居た。
でもわたしは「よっしー」を探し声を出し続けた。駐車場に出ていた。いつの間か靴を履いていなかった。靴下も右、ひだりと脱げた。外はもう真っ暗になっていてもう帰ることが出来ないという思いが膨れ「どうなってもいい」となっていた。
よっしーらしき人が見えたけど、もう期待していなかった。横を通り過ぎようとした時、よっしーが抱きしめてくれた。よっしーは少し笑いながらくつした〜と言いながら拾い集めてくれた。わたしは安堵感に包み込まれていた。安心した。その時、よっしーは赤ちゃんを抱えていなかった…
 
そこで、目が少し覚めた。
夢だったと気づく。
現実でもずっとこんな事をしているかも知れない。
今は放置された感覚になるともう寝る手段しか無くなる自分。眠れればいいけど。
呼吸の観察をすることで落ち着いて眠気が襲ってくる。でも浅い眠りが多く夢をたくさん見る感じもある。起きた自分は疲れていた。そんな朝。

5/20 体得する

弁当屋さんの総菜をラッパーで包装する作業がある。
留学してからしばらくの期間はそのポジションを敢えてやらなかった自分がいた。
今年に入ったくらいか忘れたが、たまたまやる人が居なくて自分がやるか、となったところからやり始めた。その時は絵里さんに教えてもらった。
それでしばらくやっていたがなかなか納得のいく仕上がりではなく自分の中では”不得意な事”としていた。人に教えられるレベルではないと言うようになっていた。
その中でもわたしのラップは結構キレイだと言ってくれる人もいた。
ここ3週間ほどヨノがそのラップをとてもキレイにやるなと見ていた。
そしてヨノに教えを乞いた。それから何度もやってみた。意識しながらやっている状態だった。この間の金曜日、ふとラップをした後に考えずにやっていた。そして気づいたら教えられた手の動きとは違う感じだったか自分の中でモノにしたような、自然に手が動いているようなそんな状態になっていた。
意識していないがとてもキレイと感じる仕上がりになっていた。何度やっても。
それを人に見てみて!言いたくなるくらい。

そこで思ったこと。
これが体得、会得したような状態ではないだろうかということ。
まず、どういう原理かを知ろうとする。どの状態がベストなものかを知る。
それを見ようみまねでやってみる。何度も意識してやる。うまく行かなかった時の原因を探る。またやってみる。その繰り返しの中でいつの間にか自分流のやり方を見つけ出す。それはここだ!みたいなポイントを意識した感じではなく自然になっていて、気づいたら出来るようになっていたみたいな感覚だ。体が覚えた、そんな感じだろうか。
無意識にそれが出来るようになっている。肌に感じた出来事だった。

サイエンズメソッドを会得するとはやはり最初は意識から始まる感じかな。
何度も何度も繰り返しやってみる。どういう状態が出来た状態かも知ることがあるかな?総菜のラップのように。見るのとやるのは違う。よくよく見たら出来るわけではない。自分でやってみなければ体得は出来ないであろう。観察プログラムで感じたように、自分が思ったこと(例えば手をつなぐとか)と実際に感じる感覚は全く違う感じがある。会得に至るには実際に感じる感覚も大切な気がした。