7/26 今日やってみて
7/14 人は話し合うことでも満たし合い
7/6 2ndクォーター始まる。
7月に入り、次の3ヶ月がスタートした。
成長していないように感じた1stクォーター。
アズワンハウスでの暮らしは自分の中に”あるもの”が思いっきり顔を出す生活だった。留学時代とは大きく変わった。アカデミー号が高速船に思え、その速さに自分は付いてけないと感じる。酔いそう、というか酔っているかもしれない。外からの人を受け入れることも度々ある。ハウスでの自分がどうなっているのか、職場での自分がどうなのか、ゼミ、研究会、各種のミーティング、コース、観察プログラム。その一つひとつをゆっくりじっくり見ていったり、消化する時間を過ごしたいと思った矢先に外からの人を受け入れたり、話しをしたりすることがある。ちょっとそういうものに振り回されている状態であるなと感じている。
そこで自分は成長してないと感じるところや、他の人が引っ掛からないところでいつも自分ばかりがつまづいているようにおもう。ゼミでやってきた内容。この現状の人間の状態をまさに自分がいくつも身につけている状態でそれが本来でないと見えて来て、でも真の姿が描けない自分がいる。やらせたり、やめさせたりのない間柄は自分自身も周囲の人もとても快適に暮らせるだろうとは思うけど、リアルにその状態が描けない感じがある。それは今の自分のやらせないと落ち着かない、不安な状態が邪魔しているなとは思うが…。自分には真の人間の姿からはほど遠い気がして、わたしにはもう無理でないかと諦めかけている感じがある。
この辺りは”自分”と”人”という区別がハッキリとある辺りで引っ掛かる感じがしている。コースへ行っている間に男女のシャワー室のひとつが入れ替わった事で強く反応したた自分がいた。それはよっしーとの事で起こった反応より強いものだった。シャワー室の事からアズワンハウスの掃除、物の配置や置き場について考えが巡り2日間ほぼ眠れなかった。昨日の夕方までは全然落ち着いてない状態。
イライラしながら食器棚の中の整理をしたりしていた。わたしがそういう状態だと人々が去って行くように感じて、自分が居ないことがみんなの幸せにつながるというのと結びつけて行く。自分でもそういう状態で居たいわけではなかったが、自分を安心させることで必死だった。そういうのにもまた反応して、なにか破壊したくてたまらなかった。食器をコンクリートに打ち付けてスッキリしたかった。そんな感情が出て来た。
もうここでやるのは自分には無理ではないかと思う一方で、ここが人間関係の問題を根本的に取り組んでいる唯一のところ(自分が知る中で)と思っていて、ここでダメならもうどこへも行けないような感じもしている。あとは生きることをやめるしかない。そういうのもちらちら顔を出した。そんな狭間にいる今。面白いと感じることもある。
昨日の夕方は自分の今の状態を出す事が出来た。聴いてくれる人たちが居てくれた。
「落ち着いた?」と聞かれて「全然」というところから、こんな自分でもいいんだなと思える状態にまでなった。そのまま出せる安心がある。話すと自分が居る事でみんなが不幸にはつながらない感じもある。ヨノのレポートを読んで思ったが、話しをしている時の自分も自分と相手が別々というのを強固に持っている感じがある。
自分の事を話している、そういう感覚がある。この中身はどうなっているだろうか。
素直になんでも出せる一方で真の人間から離れた無理な物をたくさん身につけている自分、そんな身につけている自分が悪いんだと責める気持ちが湧いてくる。
これから離れない限りは阻害しているものは消えていかないだろうと思う。
ちょっと色々な事が起きている感じがして、ひとつひとつどうなっているのか見て行きたい。お弁当屋さんに無理して行っている自分。(だがこの二日間はスタートの時間より遅く到着していた)他の人の分まで稼がなければと辛くても頑張っている。今日はオフィスと1stステージのミーティングに参加せず夜ご飯を仕込んでいた。
1stクォーターではよっしーとの間に色々反応する自分がいた。この前の見るためのコースで大元によっしーに対する自分自身の見方(捉え方)がどうなっているか知る事が重要かなと感じそこをじっくり見てみたいと思った。
今は他の人を受け入れられる状態でないと思うが、19日からは一週間弱、アメリカの高校生たち12名をアズワンハウス、アカデミーで受け入れるらしいと聞いてその辺りもとても気がかりだったりする今。わたしはどこにいけば安心するのだろうか。
もう楽になりたい。。。
不愉快な心模様。
よっしーとの間に起こる自分の不快な感情。
浜松から帰って来てからこれに翻弄されている。
よっしーがスタディーツアー、(職場がビジターズステーション)に関わりだしてからわたしの中でハッキリと起こるようになった。
どういうことが自分の中で起きているのだろうか?
・よっしーとわたしの時間が取られてしまう感覚がある
・夕ご飯を一緒に食べても食べなくてもよい状態ではない
(一緒に食べることになっている)
・2人で過ごそうとしていた時間に急に来訪者を受け入れることになり、一緒の時間がなくなる
・よっしーが居ないときは良いけれど、ハウスに居てでも一緒に過ごす事が出来ないのを認められない(よっしーの自由意志を認められない)
5/28 プチミ後
昨日のプチミで気づいたこと。
コースでよっしーが居ない中、とても自由に動いている自分がいた。
ガイアエディケーションのなつみちゃん、ジエゴのお母さんセシリア…今自分がここに居る目的、アカデミーが終わった後にどのようにするつもりか、今描いていることを2人別々に問われた。その中で自分自身に対して問いが生まれ、考えたら重い巡り路頭に迷っていた。
わたしは”よっしーの彼女”という看板を自身で背負ってここでやってきていたように思う。目標はよっしーと暮らしを共に出来るような自分になること。事柄的にはよっしーと一緒に暮らすということ。そこを真剣に目指していた。そうなるか分からないけれど、それがないとなったら自分はここに居る意味がないと出て来ていた。
それと最近、自分の意思や気持ちより”やることになった”ような事柄に対して、外からやってきているように感じて違和感がでたりしていた。それがやらなきゃになったりしすると途端にやりたくなくなる自分がいる。
コースへ行っている時と、日常が違うと意識して一ヶ月くらいかな。それが何なのかずっとよく分からなかったんだけれど、昨日はよっしーがコースで居なかったのが、すごく自分から自由に動けているように感じがしてとても楽だった。コースの時もよっしーはいない。よっしーが居るからとかではなくて、これはよっしーに対して自分が彼女だという接し方をしているのと、みんな里美とよっしーはセットみたいに見ていると勝手に思っていた。それが全て自分がそう見ているだけだった。
この辺りから”違い”が明確になった気がした。最近では一人ひとりでやっている他のアカデミー生を羨ましく思っていた時もあった。そうやってわたしにはよっしーが居るから此処では出さないようにしようと気持ちにフタをしたりしていた。
本当はどうしたかったか?と今どうしたいか?自分自身としてどうだろうか?
一人の自分として何に向かって、何を目的としているのだろうか。
今、自分は何をしているのだろうか?
5/22 夢の出来事
今朝の夢
5/20 体得する
弁当屋さんの総菜をラッパーで包装する作業がある。
留学してからしばらくの期間はそのポジションを敢えてやらなかった自分がいた。
今年に入ったくらいか忘れたが、たまたまやる人が居なくて自分がやるか、となったところからやり始めた。その時は絵里さんに教えてもらった。
それでしばらくやっていたがなかなか納得のいく仕上がりではなく自分の中では”不得意な事”としていた。人に教えられるレベルではないと言うようになっていた。
その中でもわたしのラップは結構キレイだと言ってくれる人もいた。
ここ3週間ほどヨノがそのラップをとてもキレイにやるなと見ていた。
そしてヨノに教えを乞いた。それから何度もやってみた。意識しながらやっている状態だった。この間の金曜日、ふとラップをした後に考えずにやっていた。そして気づいたら教えられた手の動きとは違う感じだったか自分の中でモノにしたような、自然に手が動いているようなそんな状態になっていた。
意識していないがとてもキレイと感じる仕上がりになっていた。何度やっても。
それを人に見てみて!言いたくなるくらい。
そこで思ったこと。
これが体得、会得したような状態ではないだろうかということ。
まず、どういう原理かを知ろうとする。どの状態がベストなものかを知る。
それを見ようみまねでやってみる。何度も意識してやる。うまく行かなかった時の原因を探る。またやってみる。その繰り返しの中でいつの間にか自分流のやり方を見つけ出す。それはここだ!みたいなポイントを意識した感じではなく自然になっていて、気づいたら出来るようになっていたみたいな感覚だ。体が覚えた、そんな感じだろうか。
無意識にそれが出来るようになっている。肌に感じた出来事だった。
サイエンズメソッドを会得するとはやはり最初は意識から始まる感じかな。
何度も何度も繰り返しやってみる。どういう状態が出来た状態かも知ることがあるかな?総菜のラップのように。見るのとやるのは違う。よくよく見たら出来るわけではない。自分でやってみなければ体得は出来ないであろう。観察プログラムで感じたように、自分が思ったこと(例えば手をつなぐとか)と実際に感じる感覚は全く違う感じがある。会得に至るには実際に感じる感覚も大切な気がした。