satomingoの記録

アズワン留学中(2017/8/1~)サイエンズアカデミー(2018/4~2019/2)その後の生活の振り返り用。 diaryとして整理のために。 いつでもスタートライン。

5/9 恵共同体ツアーの振り返り

恵スタディーツアーを終えて      2018/5/9  15:33


人と人と出逢った4日間だった。
来る直前にサブホストの役割をもらい2日前にそれがなくなった。
一週間前まではアズワンハウスに泊まるという関わり以外考えられなかった。岩田さんから説明を聞いた時には役割が向こうから勝手にやってきたような感覚だった。ウンヘの人たちが来ることになっている。役割をやることになっている。決まったことではないと聞いていても”ある前提”になっているような感じがした。そして役割がなくなったと聞いて少し動揺した。自分からサブホストを外してくれと言った。今の自分の状態で(よっしーとのことからかすごく不安定な心の状態だった)はそれどころではない感じだった。よっしーはウンヘ共同体のことでいっぱいでわたしにはエネルギーを注ぎたくない感じだった。でも話しあえる時間がウンヘの人たちが帰ったあとしかないようなスケジュールでわたしの状態がそこまで持つとは到底思えなかった。先週の水曜によっしーもわたしも10時にあがり、2人で話す時間を設けてくれた。
ウンヘのサブホストの役割がなくなった時、自分の所為だと思った。
外してくれと頼んだのは自分だったのに、いざなくなると寂しい感じがあった。自分にはその役が勤まらないと判断されたのではないかと思った。
でも、その役割自体がなくなったとか、ウンヘの人たちの状態を考えると必要でないことと後で聞いてホッとした感じもあった。(わたしが言ったからなったわけではない)
そこからフリーな立場になって、照子さんに朝食の用意ひとりでやるなら手伝いたいとか、何かしらの関わりを持とうとする自分がいた。
わたしはどういう状態でそれをやっていたのか?
なにかしないといられないような感じだっただろうか?
 
今回のツアーでトランジション浜松ツアーの時の自分と比較する場面がちょこちょこあった。やっている事柄はあの時とそんなに変わっていない感じがあった。朝食の準備、珈琲を淹れる。メインで案内するのでなく、裏方のような動き。でも自分の状態があの時よりも追われているような感覚ではなかった。自分がどう感じてどうしたいかを照子さんや他の人に伝えて、それがまずは聴いてもらえるような感覚を味わった。事柄を進めることにエネルギーを注いでいる人がそんなにいなかったのか?焦っているというのは感じず、穏やかな人たちが多かったように思う。例外もあったが。(食事準備隊には穏やかさを感じなかったり、中心で動いているジンちゃんやフンミは険しい顔をしているように見えていた)
 
言葉のやりとりがもっと出来たらよかったと感じる場面もたくさんあった。
それでもわたしの拙い韓国語や英語やジェスチャーでなんとかやりとりをしようとするお互いがいたように思う。
2日目、夜のミーティングの後の遅い時間だったがよっしーがアカデミー生とアズワンハウスに泊まっているグループとの交流の時間を提案してくれた。レオ、たっきー、よっしー、わたしと参加した。
実はこの交流の直前によっしーと少し争った。のでわたしは後から参入した感じだった。ツアーの中で、わたし・レオ・たっきーは主に子どもと過ごしていた。ウンヘでは子どもの教育に力をいれている。わたしは感じたことを素直に伝えたいとおもっていた。冒頭のあたりに”子どもたちにどんな風に育っていってほしいと願っているのか?”という投げかけをした。
そこには共通しているような何かがあるような気がした。
鈴鹿が正しいとかウンヘのやり方が間違ってるとかそういうのでなく、本当に子どもや人がそのものらしく生きられるにはというところから一緒に考え歩んで行きたい感じがあった。わたしたちが答えを持っているわけではない。ここのやり方とかがどう?とかでなく…よっしーとわたしの関係のことを話した時に、同じ目線になった感覚があった。
そういう同じ目線、教える/教えてもらうとかでない次元でこれからも関わって行きたいと感じた。自分の事例で話すときに人と人というところでつながるような共感し合うような感覚がある。
交流会の時間があってすごく近づいた感じがする。人と人の心が出逢った感覚。もっとあんな時間を持てたらよかったなと思ったのと、あの交流の時間があったのとなかったのでは大きな違いだった感じがある。
次の日もプログラムはあったし、疲れていて早く寝たい気持ちもあったが、1時近くになってもまだこれから話し合いたいような感じがした。
これが一番やりたかったことだったかもしれない。
 
ウンヘの人たちは教育に力をいれていた。
そしてメンターをもったり、話し合いや人のことを”聴く”というところに力を注いでいるような日常に思えた。
でもベースの部分で「人間は相手に気持ちがあること、相手のことをまず大事にするように子どもたちにおしえてあげる」というのがあるような感じがした。”人間とはこういうものだ”という人間観がある状態で物事を見ている感じだった。本来の人間はどうだろう?教育しなければ人や物の背景を考えられない子に育つのだろうか?自分よりも相手としてしまうのには自分に無理を強いていてどこかしらでその反作用が起こるように思う。
 
人とは本当にどういう生き物なのだろうか?誰もが幸せに、人らしく生きたいというのは共通の願いのような気がする。自分に無理なく、ひっかかりなく、相手にも強いることのない人が育っていったらどんな社会になるのだろうか?食べ物は大切だからご飯は残してはいけません。というような教育もされているように思った。物や人を本当に大切にするということとご飯を残さないというのは違うことのように思う。
 
*****
振り返ってみて思うこと。
実際にその人に触れるまでわたしの心は動かなかった。
ウンヘの中のひとりと心が触れ合ったように思った時心が動いた。
最後の閉会式の時、わたしは仲良くなった人たちの中に自然に身を寄せていた。韓国人とかウンヘの人とか他人とかなんだかそういうものが取っ払われた感覚を味わった。肩を寄せ合い解け合っているような感覚。
自分の中にそういう姿があることに驚いたりもした。
警戒心の無い状態。このまま一緒に韓国へ行けそうな気分だった。
もっと交流していきたいと思っている。
実際のその人に触れるとなんだか色々したくなったり、してあげたくなる自分がいて面白い。
貰って来たお土産をウンヘの人たちとの束の間のコーヒータイムで出した。
コーヒーもドリップしたりした。そういう時間を共有したくなった。
すごく自然な動きだった。
4日を通してはとても疲れた感覚があったし、もっとこうしかったとか色々出て来てはいるが、学びの多い経験をしたように感じる。
わたしはウンヘの人たちが来る目的のようなものを帰った後に色々知った感じだった。
人が人と出逢う。心が満ちるものを味わった。人は人で満たされる感じがする。