satomingoの記録

アズワン留学中(2017/8/1~)サイエンズアカデミー(2018/4~2019/2)その後の生活の振り返り用。 diaryとして整理のために。 いつでもスタートライン。

お届け行ってみて

一週間やってみた

円ちゃんの相乗り

わたしの運転で泉田さんについてもらって

 

いく前にソワソワしたり

お届け準備室のドアを開けるとお腹が痛くなったり

精神的疲労

 

やってみて、どうだったか

そういうやりとりってしてこなかったな

こうしてください

と聞いたら それをずっとやり続けるような

 

今日は美代子さんにプチミしてもらった

たくさん泣いたな

1人で頑張る その方法しかしらないような

 

泉田さんに

お届け1人でできるようになりたくない

と言った

返答はなにそれ だったかな

 

みてもらいながらずっとやりたい

それかな

9時にいくと

事務所は電話でたり

四日市の出発前だったり

どこでどう聞けばいいのかな?

やってみてミーティングは一回でたかな

あったりなかったりみたい

 

1人でがむしゃらにやる

自分帝国を築く方向しか知らない自分かな

 

 

久しぶりに。

こんなのもやっていたな、と思い出した。

当時スクールブログには書きづらくて(自分をオープンにするのに抵抗あったな)

でも見て欲しい人がいて、ここ開設したんだったな。

そういうのにもエネルギー使っていたな。

読み返してみるとそれはそれで

変化を感じたりして。

なにをやっていたか、とそれだけでも。

2年くらいお店担当だった。

今週からお届けへ。

(原点回帰中と聞いたけど)

前のお届けはどれくらいやっていたのかな?

思い出せない。

2、3ヶ月じゃなかったかな?

 

ただの書留め?記録。

スクールブログでもいいけど、なにか書いてみたくて

書いてみた。

 

8/5 ワンオペ

4(日)からよっしーが集中研究会に参加している。

午前中は仕事へ行き、13時ー22時まで研究会。
起きて職場、帰ってきて眠る。

という生活なのでよっしーが日頃やってくれていたこともわたしがやる感じとなる

(基本的にはお風呂、散歩、joyへ取りに行ってもらったり、夕飯時の娘サポーター)
事柄的にはそんな大したことない感じだったので事前に大変な想像はしていなかった。

2日間やってみて。

疲れた、非常に。
さて、何に疲れたのだろうか?と思う。
洗濯機を回すのでさえ一苦労。
ぐずるのは夜眠れない時とかくらいだったのが、この日は午前中もクズクズ。

joyでご飯食べ終わり、散歩して、お風呂入れた後にどっと疲れがくる。感じがした。
日曜やって月曜。夕飯の後散歩から帰ってきた時にハブの美代子さんが眼中に。
少し迷ってる様子で美代子さんが近づいてきた。
「何かしてほしいことある?」
こう聞いた。
わたしは「事柄的にして欲しいことはそんなになさそう、でも娘はわたし一人だとつまんなさそう」
こんな風に答えていた。

わたしの中では事柄よりも自分の心の状態な感じがした。
よっしーがいると毎日のように話す時間がある。
少しでも心の内を話せるというのがわたしにとって大きい気がしていた。

美代子さんとほんの5分くらい話しただけだった。
娘、それまでムスっとというか無表情(わたしにはつまらなそう)に見えていたのが
満面の笑みになった。
わたしの心に風が通った感じがした瞬間だった。

わたしが満たされるほど、娘も満たされる。

外へ散歩に行ったり、誰かに会ったりとか違うおもちゃを与えたりとかいうことよりも
母親がどれだけ満たされているかが娘の満足にもとても繋がっていると感じた瞬間だった。
わたしは娘にいつでも100の愛情で接せられる。
その為にわたしの心がいつでも100満たされているということが重要な感じがする。

洗濯物を寄せるのでさえ大変に思えてきた。
りっちゃんにヘルプをだした。

もっと日常的に心の会話をしたいと思った。
よっしーとだけでなく。

週一でチェリッシュの二人ともプチミの時間を設けてもらっているが、先週は集中研でなかった。二週間に一度になることもわりとある。
不思議なくらい元気になって次の活力へとつながる。
常に身近にいると思うんだけど、わたしが常に心を開いているのは夫くらいなのであろう。
心の友だちが欲しくなっちゃったりしたけれど、きっとそうじゃない。
自分が常に心に重きを置いていないのであろう。
常にオープンではないのであろうか。

 

満足は循環する。
外から何かを取り入れることではない。

7/24 サロン

やらせる やめさせる間柄
止めるとやめさせる

「止める」は感情を伴っていない自身の行為
やめさせるは悪感情の入ったもの
人と人との関係なら やらせる やめさせる は起きようがない

不愉快な感情がなければ出てこないのかな。
何を見ているのか?というのが印象的だった。
“その人”を見ていない。
どういう間柄なのか、といえば決まった事を守っているからよい状態。
という条件付きのものなんだろう。
うちは保ちあっているというより、出し合っているなーと思う。

昨日は、「不愉快な感情」や「警戒心」さえなければ真の人間へといけるのであろうという実感を持った。
今の自分はどこに焦点を当てていくかといえばそこであろう。
そこを解消せずしては先へ進めないんだな。本当に。

わたしは悪感情や警戒心を温存してしまっているのかも?とサロン中思った。
とは言っても出てくるしとか。そういう自分を認めているのであろう。
先週、今週と2回サロンに参加する中でそれが異常であることのように思えてきた。
無くそうというより、持っているのがおかしいなって。
自分で持つことによって自分を苦しめている感じもする。

最近、先のことが前より全然怖くなくなっていることに気づいた。
いつまで生きているか分からないというのが現実になってきたような感じ。
どれだけ長く生きるか、というより
夫との時間、娘の将来をどれだけ見届けられるかよりも
真の人間をどれだけ早く取り戻せるか、そして少しでも人間らしく生きられることの方が寿命が縮まったとしても先決な感じがする。
一刻も早く。そんな人間で夫や娘と接したい。

7/18 予防接種

出産して娘との生活が始まり、生活全てが娘中心になった。
心配の引き金も娘関連の事だらけ。
体重が増加しない、うんちが出ないことから始まり、
おっぱいのこと(粉ミルク)、
聴覚スクリーニング、
予防接種・・・

すべてわたしの不安から翻弄してしまった。
予防接種が一番大きかった。
打っても打たなくてもどっちに転んでも不安。
病気にかかるのが、亡くなるのが怖い、保健師さんに突かれるのが怖い、先生に見捨てられるのが怖い…。ワクチンの副反応が怖い、ワクチン打ってアレルギーになるのが怖い、抵抗力が弱くなるのが怖い。
とても知的でないこところの判断で2ヶ月目に打つ最初の三本を一度に打ってしまった。打った時は先生を信じて。

色々迷走した結果、結局はどっちに転んでも生命力だと思った。
なにをやってもやらなくても生きる人は生きるし、亡くなる人は亡くなるのだろう。
どっちが良い、悪いから判断していくのは人と対立していくのだろう。
ワクチンは有効な手段だと思うけど、今の娘にとって全て必要とも思わない。
その病気になった時にそれに効くワクチンがあったら、あー打っておけばよかったなと思うかもしれない。
でもそんな事言っていたら今ある全てのワクチンを打つということになるんじゃない?と思った。


これはワクチンを打った後に
任意のロタウイルスのワクチンをやりますか?やるなら期限があるので早めにというのを聞いた時から疑問が湧いてきた。
全国的に9割ほどの乳児がやっているとのことだった。びっくりした。
一本助成ありで計3万ほど。

産後2ヶ月経ってない頃のわたしは娘のお世話で手一杯。
それすら手伝って欲しいくらい体力も思考力も低下していた。
そんな時に予防接種の事を勉強なんて出来なかった。

ワクチンは意味がない。と反ワクチンの話もチラッと聞いたことがあってそこから自分は基本打たない派でやってきていたけれど、子どもができるとは思っていなかったのであの時は真剣に勉強していなかった。(子どもの場合、基本義務接種のように思っていた)

という状況にも後悔したりした。

そんなこんな不安が頭を占めてネットサーフィンの時間が長い時をしばし過ごした。
こんなこともう辞めたかったけど、自分の安心を求めてというのと次のワクチンの時期までになんとか答えをださなければと自分の中でなっていた。

そうして、自分がどんな事が起きても、どんな問題にもの動じない自分。

ぐらつかない芯のある自分でいたいとおもった。
この不安が娘に伝染してしまうのだろうとおもった。
打つ選択をしても不安にならない。打たない選択でも不安にならない。
何事にも言えるだろうけど、正解なんていうものはどこにもない。
強いていうなら自分の選択が正解なのだろう。
自信を持つ必要はないと思うけど、それで行くときめたら迷わない。
ここかなー。
打った後に夫婦で話し合った結果
結局今のところは娘にとって打ったらいいかなと思うワクチンを打っていこうとなった。

7/17 サロン

途中参加させてもらうことができた。

No.6 第二章 真の人間性 からのスタート。
録音も所々しか聞いてなかった。
やはり録音でさらりと聞いてしまうのと実際にサロンの場にいるのとは入ってくるもの、頭と心の働きが違う。なにが違うのだろう…。

楽しく、充実した2時間を過ごした。
サロンに参加したら、録音で復習したくなった。
録音聞く気にもならなかったのになー。面白いな。

 

『警戒心の生じない間柄』

心理的圧迫によって警戒心が生じるようになる
言葉にしなくても心の状態が警戒体制だと、圧迫を自他共に与えていることになる。
心理的ということは感じてしまう。圧迫したくなくてもしてしまう。


警戒しているから警戒されてる感じになる。
じゃあ警戒がなかったら警戒される事がないのかもしれないね。
悪感情ほどでなくとも言動に引っかかるという事は心理的圧迫があるということ。
日常のほとんど圧迫しあってるなんておかしな話だよな。

それって精神的に傷をつけてる感じだよね。リストカット的な。
わたしは自分責め強いし…。
その瞬間、今は棘のある自分なんだなって自分癒す方にいけばいいものを
自分で傷めつける(これは強いやつ)
強くなくても針で心をつつくことを毎日繰り返しやっている自分としたら愕然としてしまう。


悪感情がある人には真の人間性は知れないと出ていた。

わたしの日常は圧迫のある暮らしだなと思う。
病的異常な自分の姿があぶり出されてくるように感じた。
普通の人を知るほどに小さな異常さに気づくのだろう。

相手の言動を聞いて自分の考え、見解を主張したくなった時点で異常なこと。
ふむふむ。
このコップ何に使うの?と聞いて、

それあなたが買ってきたのでしょ?

人を聴けない例、そのまま聞けないことと通ずる。
不愉快。引っかかるのが異常。

7/16 リスタート

アカデミーを卒業して、引っ越し、結婚。
娘が産まれました。

出産後3ヶ月。

よっしーの強い勧めもありサロンに参加することに。
少しずつまた振り返りもして行きたいなと、娘の昼寝の間に書き留めていきたいと思います。